出身校 東京都渋谷区 短大生

開業医一家 受験の重圧とは 


 「(妹に)『夢がないね』となじられ、頭にきて殺した」。東京都渋谷区の短大生武藤亜澄(あずみ)さん(20)が自宅で切断されて見つかった事件で、逮捕された兄の予備校生勇貴(ゆうき)容疑者(21)の犯行動機は衝撃的だ。背景には開業医一家という家庭環境と受験の重圧があるが、受験期を控えた兄と学生生活を楽しむ妹の間には一体、何があったのか。現役医大生と識者に聞いた。


 事件は昨年十二月三十日午後三時ごろに起こった。妹の亜澄さんから「私には夢があるけど勇君にはないね」「勇君はしっかり勉強しないから夢がかなわない」と言われて逆上した勇貴容疑者は、亜澄さんの首を絞めるなどして殺害した後、包丁やのこぎりで遺体を切断しポリ袋に入れるというショッキングな展開だ。


 勇貴容疑者の両親はともに近所でも「腕利き」で評判の歯科医師で、兄も父親の衛さん(62)と同じ日本大学歯学部に通う歯科医師一家だ。同容疑者も高校一年生のころから同大歯学部への進学を希望。現在、三浪中で、歯学部入学を目指して予備校に通っていた。一歳年下の妹は、女優を目指す短大生で、まじめで目立たないタイプの勇貴容疑者とは対照的に活発な性格だったという。


 同じような医師一家の境遇にありながら、難関を突破した現役の医大生たちは、今回の事件をどう見ているのだろうか。


 愛知県の医大に通う女性(23)は、医学部に入るために三浪したという。


 父親は開業医。年子の弟は現役で自分より先に歯大に合格した。「うらやましい部分はあった。(医大入学は)『理想論だ』とか『できもしないくせに』と言われると、悲しかった。(勇貴容疑者も)『夢がない』と言われてショックを受け、苦しかっただろう」と想像する。


 勇貴容疑者が妹から「夢がかなわない」と言われてカッとなった心理は、有名国立大医学部に現役で入学した女子学生(22)も「分からなくはない」と話す。父親が開業医、姉は医大生で、祖父も医者。「姉が現役で合格したので、引け目や悔しい気持ちがあり、自分も現役で入らなければと思っていた。きょうだいはどうしても比べられる」


■ピリピリした雰囲気が漂う

 受験期はピリピリした雰囲気が漂い、ストレスで過食気味だった。女子学生は「親から『六浪くらいしてもいいから、医学部に入って』と言われた友達もいる。跡を継がせなきゃいけないからです」と話す。


 父親が開業医で兄も医大生の東海地方の医大の女子学生(20)は、中学生のころから母親に「医学部に入るために、理系の勉強をしなさい」と言われ続けた。高校で打ち込んでいた部活を辞めさせられて反発したが、結局医学部しか受験させてもらえなかった。


 医大に入っている兄が独立して開業した場合、父親の跡継ぎは自分になる。父親は何も言わないが、同じ道を進んでほしいという思いがひしひしと伝わってきた。「落ちたらどうしよう」という、すさまじいプレッシャーに襲われ、受験が近づくにつれ、よく「キレ」てしまったという。


 勇貴容疑者の行動については「三浪して入れてくれる学校は限られるので、自分も焦るし、親のプレッシャーも掛かる。本人の心が弱っていて、ウワーッと混乱状態になったのでは」と背景を推測する。


 一方、今回の事件報道に接し、「一九八〇年に川崎市で起こった金属バット殺人事件を思い出した」と話すのは、上智大学の福島章名誉教授(犯罪心理学)だ。当時二浪中の予備校生が就寝中の両親を金属バットで殴り殺すという凄惨(せいさん)な事件で、大きな社会問題になった。

 父親は東大卒で、兄も早大卒の学歴をもつ一家。予備校生は当初、「強盗に入られた」などと警官をけむに巻いた話は有名だ。

■『罪悪感なし』他事件と同じ

 二つの事件が似ているのは、「重大な罪を犯しながら、容疑者の感情が鈍磨していて罪悪感をほとんどもっていない」(福島氏)ことだ。今回のケースでも、勇貴容疑者は亜澄さんの遺体を自宅に残し、予備校の合宿に出掛けるという特殊な行動をしている。その際、「サメが死んだから」と見え透いたうそまでついている。妹を殺しておきながら、今年の入試に合格し、歯科医師になるという夢を相変わらずもっていたことになる。

 勇貴容疑者が凶悪な犯行に走った背景には何があるのか。

 昨年六月、奈良で医学部進学を目指す高一の長男が自宅に放火し、家族を殺害した事件のときも指摘されたが、そこには受験のプレッシャーに加え、医者一家という一見恵まれた環境も、勇貴容疑者の心に屈折を与えていたようだ。

 「医者、特に開業医は今では少なくなっている家業の典型で閉鎖社会だ。子どもは医者になることが幸福であり、目標になっている」

 精神科医で帝塚山学院大の小田晋教授はこう話す。

 閉鎖社会の中には、兄弟姉妹の間にも「順位性」や「縄張り」があると小田氏は言う。「妹から見下されたような言葉を浴びせられたことで、勇貴容疑者が劣等感を爆発させ、それによって(自分が妹よりも上だという)順位性を回復しようとしたと考えられる」


 精神科医の作田明氏は両親とも医者という一家に育った。しかも自身、医学部に合格するため三浪した。

 「家族がみな同じ資格をもち、同じ方向を向いていると、その中で違う方向にいくのは難しい。特に男の子がほかの道に進むことには家族全体が許容しない雰囲気がある」と作田氏は医師一家がもつ独特の“空気”を明かす。

 父親の衛さんと兄はともに日大歯学部に進んでいる。自らも日大出身の新潟青陵大学の碓井真史教授(社会心理学)によると、「日大は愛校心が強く、親は子どもを日大に進ませたいという気持ちを強く持っている」という。

 そんな家庭で、医者の道に進まず、芸能事務所にも所属していた亜澄さん。作田氏は「勇貴容疑者は、自由な道を選び、楽しそうに見える妹に対してねたましい気持ちをもっていたと考えられる。だからこそ、ふだんはおとなしく、他人に怒りの感情を向けられない勇貴容疑者が、この妹の一言に爆発してしまったのではないか」とみる。

 妹から「夢がない」となじられた勇貴容疑者だが、「容疑者の歯科医師になるという夢は、自分自身の夢ではなく、両親から与えられたものではなかったのか。自分で選び取った夢ならば、実現しなくてもいい思い出になるが、人に無理やり与えられた目標は苦しく、みじめで、後から思い出したくもない。だからこそ妹の『夢がない』という言葉が容疑者の心にぐさっと突き刺さってしまった可能性がある」(碓井氏)。

 親の期待通りに歯学部に進んだ兄と自由奔放に生きる妹。勇貴容疑者がそのどちらにもなれなかったことに、碓井氏は悲劇の原因を見てとる。

 「勇貴容疑者は合格することでしか親の愛を得ることはできないと思い込んでしまったのではないか。仕事や進学で成功することでしか親の愛が得られないと考えている子どもは、それに失敗したと思ったとき、とんでもないことに走ってしまう。そうならないためにも、親は子どもに向かって日ごろから『おまえのことが好きだよ』とちゃんと本人に伝えておくべきだ」


<デスクメモ> 五人兄弟の末っ子だ。小さいころから、年の離れた兄には何をしてもかなわないと観念していた。その意味では、分もわきまえて、兄と違う道を選んだのは正解だったと思っている。医者の子は医者。開業医なら、なおさら、親の思いは強いのだろう。しかし、違う道もあるんだ、ということを知ってほしい。