2010年12月17日に内陸部の地方都市から始まった反政府運動は、11年1月11日以後、首都チュニスへ飛び火するとともに過激化し、1月14日にベンアリ大統領が国外に亡命、23年続いた独裁政権は崩壊した。政権崩壊の経緯と現地日系企業の声を報告する。
<予想以上の国民の反発>
ベンアリ大統領は1月10日、12年までに30万人の雇用創出を約束するテレビ演説を行った。しかし、経済対策だけで飽き足りない反政府運動(2011年1月12日記事参照)は地方都市から首都圏へ広がり、政治的色合いをさらに強め、政権弾劾、ベンアリ大統領の辞任を求めて過激化した。
12日にはガンヌーシ首相が運動の沈静化のため内務相を罷免、逮捕されていたデモ参加者の釈放を発表するなどの措置を取った。しかしその一方で非合法政党の労働共産党党首を逮捕、首都圏に夜間外出禁止令を敷くなど抑圧政策を続けた。反政府運動は衰えをみせず、商店からの略奪や建物の焼き打ちなどへ過激化した。13日には、ベンアリ大統領が14年の大統領選挙への6期目の出馬は行わないことを宣言すると同時に、デモ隊への発砲を禁止、情報・インターネットへのアクセスの完全自由化、基本食料の価格引き下げなどの政策を同時に発表した。
しかし、これらの懐柔策も国民の不満解消にはつながらず、演説が行われている間もデモ隊と警察の衝突により、チュニスだけでさらに13人の死者が出るなど運動はさらに激化した。14日、ベンアリ大統領は6ヵ月以内の総選挙を約束すると同時に内閣を総辞職させ、ガンヌーシ首相に新内閣の組閣を一任した。同時に、全国に警戒態勢が敷かれ、軍が空港を掌握した。
同日、ガンヌーシ首相がベンアリ大統領の国外脱出に伴う暫定的大統領権限の引き継ぎを発表。23年にわたったベンアリ政権が崩壊した。15日にはベンアリ大統領とその家族がサウジアラビアのジッダに到着し、大統領亡命が確認された。
<政権崩壊のカギを握った軍>
ベンアリ政権崩壊には、13日の首都チュニスでの軍の撤退が大きな影響を与えたといわれる。反対運動の初めの段階から軍は反対運動鎮圧へ積極的な参加を避け、激しい反対運動が展開された都市では、市民への発砲といった強行な鎮圧を行う警察に対して戦車を盾に被害を最小限にとどめる方向に動いたとされる(「ル・フィガロ」紙1月14日)。
ブルギバ前大統領の時代からクーデターを恐れ、軍には一切政治的権限が与えられておらず、3万5,000人を抱える軍は常に中立的立場を堅持していた。市民への被害を最小限に抑えるため、ベンアリ大統領の国外亡命を促したのも軍だとされている。
<チュニス市内は平常化へ>
在チュニジア日本大使館資料(09年6月現在)および外務省海外在留邦人数統計(09年10月1日現在)によると、チュニジアで活動する企業は商社やメーカーなどは13社、在留邦人は186人。ジェトロが集めた現地の声は、以下のとおり。
○チュニス市内の状況は平常に戻りつつある。ただし、略奪を恐れるためか、商店はほとんど開いておらず、水、パンなどの調達に苦労している人もいる。大規模スーパーが攻撃の対象となったのは、ベンアリ大統領の親族らがその経営にかかわっており、大統領勢力への抵抗という意味合いがあったと思われる。
○チュニス市内の企業への出勤率は2~4割といったところか(1月17日現在)。政府は、1日も早く平常の生活に戻すことが反政府勢力の活動を抑えることにもつながると考えており、通常どおり出勤することを奨励しているが、実際に出勤しているのは半数以下と思われる。
○在留邦人の中には欧州に一時的に避難する人、日本に帰国する人も見受けられる。
○ベンアリ大統領は演説(1月13日)の中で、インターネットへのアクセス規制緩和に触れた。従来は国内からはYouTubeにアクセスできず、どのような種類の映像も閲覧できなかったが、現在はYouTubeにアクセス可能になった。このことからも、報道、インターネットなどへの規制緩和は実現化しつつあると思われる。
○観光産業は主要産業の1つだが、観光客が以前の水準に戻るには1年くらいかかると思われ、国内経済への影響は大きいだろう。
○外資誘致を積極的に進めてきたのに、このような社会的不安は大きな痛手といえるだろう。ただし、23年間続いた長期政権は、これまで、いつ爆発するか分からないという問題を内包していたともいえる。新政権の手腕、国民の反応などをみる必要があるが、民主化された開かれた国になる可能性も高い。もともと教育レベルが高く、ポテンシャルはある国なので、外資流入が増加していく期待感もある。
ムバラク大統領は今回、軍部の腹心を政府要職に就けるなど、最後のとりでとして軍部に頼る姿勢を明確にした。しかし、専門家の多くは、過去30年拒んできた副大統領の指名は、むしろ権力の衰退だととらえている。もはやムバラク大統領にはこれまで謳歌してきた独裁的な権力はなく、軍部主導の権力継承に向かう可能性があるとの見方だ。
エクスクルーシブ・アナリシスのファイサル・イタニ氏は「軍部は窮地に追い込まれており、大統領についてどうするか決断しようとしている」と指摘。「ムバラク大統領を負担とみなしているが、べンアリ(チュニジア前大統領)のように逃亡させたくはないと考えている可能性がある」と述べた。
一方で、エジプトの民衆は、武力による威嚇にもひるむ気配を見せていない。首都カイロでは、略奪や破壊行為も発生するなど混乱しており、フセイン政権崩壊後のバクダッドや内戦時のベイルート、今月に政変が起きたチュニジアを思い起こさせる。
ムバラク政権下で30年間保たれてきた治安がわずか数日で崩れたことで、治安当局の秩序維持能力には大きな疑問が生じた。チュニジアと同様、エジプトでは増大する若者人口の多くが失業中で、特権階級による抑圧に不満を抱えており、支配階級内での単なる入れ替えではなく、既存勢力の完全な一掃を求めている。
専門家らはエジプトの政治の将来像について、影響力の強い穏健派イスラム原理主義組織「ムスリム同胞団」を排除することは不可能だとみる。
ただ、ムスリム同胞団は
当局との長い対立の歴史から、反政府デモへの肩入れには慎重であり、もし勢力を伸ばし過ぎれば、イスラム勢力主導の政権発足を懸念する西側諸国の圧力を受けた政府から激しい弾圧を受けるリスクもある。また、多くのアラブ諸国のイスラム系組織と同様、国家の統治には及び腰であり、自由で公正な選挙、法の支配や新憲法などの政治改革を戦略の中心に据えている。
しかし、それこそが反政府デモを続けるエジプト国民の総意であるようにも見える。
リビアの最高指導者カダフィ大佐(68)を40年以上にわたり支えてきたオベイディ公安書記(公安相)が22日夜、反体制派に合流するとして辞任を表明、軍に対しカダフィ氏への反乱を呼びかけた。同国東部が反体制派の支配下に入り、離反者も相次ぐ中、リビア情勢は内戦の様相を呈しつつある。
イタリアのフラティニ外相は23日、一連の騒乱の死者は1千人に達したとみられると語った。リビアの公式発表では死者数は約300人にとどまっている。フランス通信(AFP)によると、仏石油大手トタルが同日、リビアでの石油生産の一部を停止する作業に入るなど、世界経済への影響も広がっている。
また、国連安全保障理事会は22日、緊急の非公式会合を開き、リビアでのデモ隊への攻撃を非難、暴力行使の即時停止を求める報道機関向け声明の発出を全会一致で決めた。
軍出身のオベイディ氏はカダフィ氏の腹心とされた人物。同国北東部の部族出身で、軍に影響力がある。現在は北東部の第2の都市ベンガジにいるという。
中東の衛星テレビ局アルジャジーラなどによると、23日にはリビア艦艇2隻が反体制派への攻撃を拒否し地中海のマルタに到着した。ベンガジでは住民が自治組織を結成する動きが広がっているほか、首都トリポリに近い西部ミスラタも反体制派が占拠した。南部の反体制派の武装部族が、トリポリ市民の救援に向かっているとの情報もある。
一方、安保理の緊急会合は、カダフィ氏退陣を要求したリビアのダバシ国連次席大使の要請を受け開かれたが、出席したシャルガム首席大使はカダフィ氏を「友人」と呼ぶなど政府内の混乱と亀裂を印象づけた。
アラブ連盟(本部カイロ)も22日夜、リビア政府が反体制デモ隊の要求に応じるまで、同連盟のすべての会合への参加資格を停止すると決定した。
23日にはイランのアフマディネジャド大統領までが、自国民を無差別に殺害するカダフィ氏を「信じられない」と非難、同氏はさらに孤立を深めている。
カダフィ氏は22日夕、国営テレビで演説、反体制派が求める退陣を拒否した上で、「(1989年の)中国の天安門では、武装していない学生も力で鎮圧された」などと述べ、武装するなどした反体制派への弾圧を正当化した。